町の概要
町章
昭和31年9月30日に国富町の発足を記念して、図案を町民から募集して定めました。
中の「○」は「国」の図案化で、「ト」を3つで「富」を表し、全体として安定と発展を象徴したものです。
(昭和33年3月13日制定)
町の花:コスモス
「コスモス」は可憐で親しみやすい花で、また、栽培も容易で繁殖力も旺盛であることから、町の花として選ばれました。
花言葉は「少女の純潔と愛情」です。
(昭和50年6月10日制定)
町の木:かし
「かし」は古木として指定され、本庄稲荷にそびえ立ち、古墳に代表される国富文化を象徴しています。
また、緑化を進めるにも代表的な種類の樹木であり、実も食用として使われることから、町の木として選ばれました。
町民憲章
わたくしたちは夢をみたし喜びを感ずるすばらしい国富町をきずくためにこの憲章を定めます。
- 健康で仕事にはげみ楽しい家庭をつくります。
- きまりを守り心のふれあう明るい社会をつくります。
- 郷土を愛し文化を高め若い力をのばします。
国富町は合併以来、恵まれた自然や風土の中で融和と協調の心をもって、町民が一致協力して教育、文化、産業、経済、環境整備など各方面にわたり大きな発展をしてきました。
この町民憲章は、町政の目標である「夢をみたし喜びを感ずるすばらしい国富」を築くことを理想の姿として、町政の基調である「豊かな心」「豊かな暮らし」を具現するため、町の歴史や伝統を踏まえ町民の信条として一人ひとりが心がけ、生活の実践の中に生かされるように定められたものです。
皆さんにわかりやすいように平易なことばで表され、前文に町の志向する理想の姿を表し、3つの条文により「家庭づくり」・「町づくり」・「人づくり」を表現しています。
町の沿革
本町は、明治6年に宮崎県に属し、同9年には宮崎県廃止で鹿児島県に合併されました。明治16年に宮崎県の再設置とともにこれに属し、昭和31年9月に本庄町と八代村が合併して、新しい町として発足しました。さらに昭和32年3月に木脇村と合併して、当時県下最大の町として国富町が誕生しました。
町名の由来は、古い時代にこの地方を国富本庄あるいは、国富本庄神陵京(かみはらみやこ)・国富本庄神原邑(かみはらむら)などと呼んだことにちなみ名づけられました。
旧本庄町は、古くは高日邑(たかひむら)または国富邑(くにとみむら)といい、豊園別命(とよくにわけのみこと)以来「国造(くにのみやつこ)」の代々治めたところであり、江戸時代の正保2年に、この地は天領とされ、以来明治維新まで幕府直轄領でありました。
明治22年町村制の施行にともない、旧本庄郷の六日町・十日町・北本庄村・南本庄村・森永村・竹田村・須志田村、秋月領の宮王丸・嵐田村及び島津領の田尻村・向高村を合わせて本庄村として発足し、大正8年3月に町制がしかれました。
旧八代村は、もと薩摩藩に属し、高岡郷の配下にありました。明治22年町村制の施行にともない、八代南俣村・八代北俣村・深年村及び秋月領の伊左生村を合わせて八代村として発足しました。
旧木脇村は、太平記には「絹分(きぬわけ)」とあって、天正15年以来明治維新まで秋月領でした。明治22年町村制の施行にともない、木脇村・塚原村・三名村及び岩知野村を合わせて木脇村として発足しました。
町の地勢
本町は、宮崎県の中央部にあって、東は県都宮崎市に隣接し、北側には古墳群で有名な西都市、西側と南側は同じ東諸県郡の綾町、高岡町に囲まれた面積130.63km2の農山村です。
■土地利用の状況
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