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大刀洗陸軍飛行学校・教育隊 当時の記録、記述

当時の記録、記述

一般に六野原飛行場は太平洋戦争中に建設されたものと思われていますが、実は大正末年に仮設ながら飛行場が設置されています。

経緯

六野原台地・・・国富町の北東部に位置する台地(約420ヘクタール)

1.大正15年12月

飛行第4連隊により、木脇村六野原台地に補助着陸場が設置されました。
建設に当たっては、地元在郷軍人(青年団、消防団)約150人が、5日間奉仕作業し、臨時滑走路約700メートルが完成。
大正15年12月24日、一番機が着陸、翌25日も予定があったが大正天皇の崩御のために中止。
このことが、六野原台地に飛行場建設のきっかけになったとも言われます。

情勢

六野原で飛行演習の行なわれた大正15年(1926)12月、大正天皇の崩御により年号も昭和となります。そして昭和2年には金融恐慌、昭和5年にはロンドン軍縮会議と経済や政治の目まぐるしい展開のなか、昭和6年(1931)には満州事変が始まり15年にわたる戦争に突入します。昭和8年(1933)日本は国際連盟を脱退し軍国主義国家の性格を濃くしていきますが、昭和12年(1937)日中戦争、昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発して戦時体制はいよいよ強まりました。街角には『欲しがりません勝つまでは』のポスターが貼られ、子供までが戦争への協力を強いられるようになっていきました。そんな中、昭和17年六野原で飛行場建設が始まります。

2.昭和16年12月8日 太平洋戦争勃発

3.昭和17年4月

飛行場建設計画地として陸軍省で決定され、同年5月28日測量開始、6月には建設工事着手、昭和18年11月大刀洗陸軍飛行学校・木脇教育隊訓練場として、約1200メートルの滑走路2路線が完成。(付属施設含む)
同年11月21日、一番機が着陸、複葉機による勇猛果敢な操縦訓練が連日開始されました。
昭和20年5月24日戦況の悪化、再三の空襲により、操縦訓練場の機能を失したため、鳥取飛行場に全隊員が移動し、ここに木脇教育隊操縦訓練場が閉鎖されました。

記録によれば木脇教育隊への訓練兵と人員は次のとおりです。

  • 第1期生 昭和18年11月20日 見習士官...149名入隊
  • 第2期生 昭和19年3月25日 乙種少年飛行兵...198名入隊
  • 第3期生 昭和19年8月2日 特別幹部候補生...150名入隊

4.昭和20年8月15日 太平洋戦争は、日本国敗戦で終結します。

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